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NEET株式会社のアラサー男子が人生について考えてみた

NEET株式会社のスクイッドが人生に役立ちそうなことについて綴ります

宗教は人を幸せにするのかという話

生き方 スピリチュアル

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phaさんの「宗教っていいよね」という記事を読んでから、そもそも宗教は人を幸せにするのかということを考えてみた。

その答えはシンプルで、深く考えるまでもなくノーになる。

ちなみに個人的には、神仏を敬うことが尊いのと、宗教が人をさほど幸せにしていない事実は分けて考えた方がいいと思っている。

 

ただ、宗教全否定というわけではない。

この前、NHKで九州の離島に住むキリスト教徒の人たちの生活を取材した様子が放送していて、食事前に感謝の祈りを捧げるのは尊い習慣だと思った。

 

飽食という言葉が使い古されてずいぶん経つが、物が有り余る日本で、その時々の食事を感謝して味わう人はどれだけいるだろうか。

きっと、そういった人は少数派で、より美味しいものを追い求めたり、流れ作業のように食事をする人の方が多いように思われる。

多少残念なことではあるものの、食べ物のありがたさを噛みしめたり、「あること」に意識が向く経験がなければ、気づくことができないことなので、必ずしも悪いことではだろう。

 

 

幸せにしない理由という後ろ向きなことを書くのは、そこまで気が進まない部分はあるが、情報発信の一つとして、せっかくの機会なので書いておこうと思う。

 

まず一つは、お寺でも神社でも何でもいいが、他人に救ってほしがる人間が集まるところは波動が低いからという理由だ。

スピリチュアルに関心がないと、あれな単語かもしれないので、思念とか想いとかに置き換えてもいい。

 

人間はそもそも、肉体、精神、霊魂の三つで構成されているので、波動の影響は受けざるを得ないようにできている。

感度に個人差はあれど、そういったところへ近づくのはあまりおすすめしない。

例えば、規模が大きめの神社に元旦に行くと、上記の傾向が顕著であり、重いような気持ち悪い感覚がして、早くその場を後にしたい気分になったりする。

 

 

二つ目は、教義なり教えなりがテンプレ化されていて、自分で考えることを阻害してしまうから。

これはシンプルに、正しい正しくない、尊い尊くないという次元の話ではなく、誰かの用意した答えよりも、自分で出した答えの方が結果的に、悟りなり次元昇華なり(平たく言うと個々人の幸せ)に近づくという理由がある。

 

人間の直感やインスピレーションは、思考やエネルギーがクリアな状態になると、かなりのハイスペックを発揮するので、いわゆる自分で出した答えが最良の選択になるようになっている。

もちろん、直感の選択として誰かの力を借りるというケースはありそうだが、教義というソフトウェアをインストールすることは、そういった機能に制限をかけるといっても間違いではないと思う。

 

ただ、例外も存在していて、過去世で宗教(仏教キリスト教など)を信仰したいと思っていても、何らかの理由でできなかった場合は、今世で信仰を選ぶことにつながるのではないかと考える。

江戸時代の人がどれだけ生まれ変わっているかは分からないが、キリシタンが弾圧されていたことを考えると、平和的にキリスト教を信仰できる現代は適した時期ともいえそうだ。

 

 

結局のところ、一番大切な要素である、「愛」、「感謝」、「思いやり」はわざわざ宗教に入信しなくても、すぐにできるという結論に至る。

大切な人に何らかのかたちで愛を示したり、今の生活であるものに意識を向けて感謝したり、誰かに思いやりを向けることができる。

 

ついつい自分のことで悩みがちな人は、自分もしくは自分以外の誰かを喜ばせることにフォーカスすれば、悩みがだいぶ軽減されるので、一度試してほしいと思う。

もちろん、相手が自分の思い通りの反応を示さなかったとしても、気を悪くしないことは大切だ。

贈り物や感謝の言葉、思いやりを向けることに慣れてない場合、最初のうちはまごまごするかもしれないが、「慣れたらできるようになる」と自分に言い聞かせて続けていれば、そのうち自然にできるようになる。

 

本当の意味で幸せになろうとするなら、「自分の中の欠けた何かを自分以外の何かで埋めようとする」のではなく、「本来の自分に戻って良い部分が出せるようになる」ことに意識を向けた方がいいだろう。